住之江遊郭の土地の記憶、人の思い・・・


六角川下流

父の祖父が建てた実家(昭和36年)は佐賀県小城市芦刈町永田のちょうど六角川が有明海に注がれている下流付近、住之江地区というところにあった。近くには有明海の干潟に生息するムツゴロウも見れる場所もある。子供の頃に行った記憶はとても鮮明で、家の裏側を流れている六角川とその水門、その川に掛かる住ノ江大橋の景色はしっかり刻まれていた。添乗員時代にたまたま住之江橋を通るルートのツアーバスからその景色を見た時、思わず声をあげたことを覚えている。


6月に始まった父の実家空き家解体問題があって佐賀に何度も通ったが、その事がきっかけでこの父の実家があった地区が大正から昭和の戦後あたりまでどのような町だったかを知った。叔母から話を聞いて、声に出さず”どうりで・・・!”と心の中で頷ずく自分がいた。父の実家は『住之江遊郭』の土地の上に建てられていた。


住ノ江は、江戸後期には生活の糧として有明海の魚介類を水揚げしていた漁村であったが、近代化の原動力となった石炭を北方・大町・江北の炭鉱から掘り出し六角川の水運を利用して河口の住ノ江港まで運び、そこで貨物船(三千トン級の船もあった)に積み込まれて、戦前は国内だけでなく、中国(上海、香港)や東南アジア(スマトラなど)各地へ輸出された。当時は貨物船の出入りも多く住ノ江港は貿易港として、上陸する船員で賑わい、対岸の福富住ノ江地区みは税関も設置された。 住ノ江遊廓の開業は大正9年11月3日で、八軒の遊廓が軒を並べてどの遊女屋も5~10人の娼妓を抱えていた。 第二次大戦後の昭和21年(1946年)にはGHQの指令により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、遊廓はほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域として存続した。昭和32年(1957年)、売春防止法が成立し、公娼地域としての遊廓の歴史は完全に幕を閉じることになった。(岡本澄雄「江戸吉原の遊郭と住之江遊郭 小城郷土史研究会 小城の歴史:第73号 2016」より引用)

参照ブログ:小城ー古今東西舎


住之江遊郭の地図


昔の遊郭の地図を参考に家はどの楼閣と重なっているんだろうと見比べてみる。たぶん「光永楼」か「金成楼」かどちらかだろうね。そう言えば相続処理をしていた時に、前所有者の権利書も手にしたけど、○○さんという方がもしかすると遊郭を経営していたのかもしれないなと想像をする。Youtubeで解体する前のジャングルのようになっている家が『秘密の館』として紹介されていた。(笑)




しばらく前に、ある著書では土地には記憶があることを説明されていた。もしかするとこの土地、祖父の家のあった区画にはきっと遊郭時代の土地の記憶が刻まれているのかもしれないと思えた。遊郭という特殊な職業に従事する方々で、存命の人はおそらくおないのではないかと思うが、そう言った色々な事情で関わっていた人たちの記憶、思いというのもこの場所にはきっと残っているのかもしれないとも強く思える。


ユニークな場所に父方の祖父は縁を持ったもんだと思う。ただ、こういう実家解体問題が出てこない限り、自分がこうして知りえないことを知れたというのは良いことだと思っています。


正美


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