MARCH 2024 ~ 饒速日命と長髄彦めぐり③~添御縣坐神社・・・


次に向かった場所は「添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」だった。富雄川を南に沿って進む。ここに向かう道中、「長髄彦の本拠」の碑があった白庭台近くに「饒速日命墳墓」と謂れのある場所がある。立ち寄ろようか迷ったけれども行かないことにした。気にはなるが、饒速日は三輪山に眠っているのではという説を自分も今のところ支持している。ただ古代の埋葬方法は現代と違うので、墓の比定地、推定地は一歩引くような感覚をもって考察した方がいい気がする。

殯(もがり)の期間を経て土葬される。ただ例えば日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の墓ではないかとされる場所が少なくても3か所ある。三重・能褒野(のぼの)、奈良・御所(ごぜ)、大阪・羽曳野(はびきの)。三重の能褒野古墳が一番名前としては聞く。現代のような冷凍保存技術がない時代、例えば地元が大阪でも、出張先の三重で亡くなればそこに埋葬される。ただしその後生誕地で神として祀る際に、死者の髪の毛や歯(魂が宿っている依り代的!?)を改めて埋葬すると聞いたことがある。要はこれも神々の系統と同じで墓がどこだとかに気を取られ過ぎると理解が先に進まない。


さて今回訪ねた「添御縣坐神社」はYouTubeで紹介されている動画も参考にしつつ、これまでの考察本も参考にしながら訪ねた。ここは饒速日に焦点を当てるというより、長髄彦に焦点が当たる。この神社は次の3柱の神がご祭神として祀られている。

【左殿】建速須佐之男命(たけすさのおのみこと)
【主殿】武乳速命(たけちはやのみこと)
【右殿】櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)

ただここの主祭殿の武乳速命はその名を使い、実は長髄彦が祀られていると宮司様が語られる動画がある。宮司様がおっしゃるように「記紀」は勝者の歴史。隠蔽、改竄箇所があり事実が正しく伝えられていない可能性は十分あると以前から自分も考えている。そういった前提条件で宮司様の話を聞き進めると長髄彦が祀られていることは全くはおかしくはない。むしろ妥当とも取れる。

長髄彦が祀られているのであれば、建速須佐之男命/櫛稲田姫命の夫婦よりも、饒速日命/三炊屋姫命の夫婦がより直接的な関係性が長髄彦とある。左右殿の神々もすり替えられていると言える。


これまで自分は饒速日に焦点を当てることが多く、長髄彦は存在だけ認知する程度だったと思う。しかしこうして所縁の土地を訪ね巡る機会を得て、長髄彦という縄文系部族の長ともいえる人物に少しずつ興味が増してきた。この話に関連して「記紀」において饒速日は神武天皇に抵抗する長髄彦を殺めたとある。でもその話も自分は首を傾げる感覚を持っている。先に饒速日は長髄彦の妹と結ばれることにより宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)という物部氏の祖となる子を得た。義理兄弟の関係性でもある。本当に事実だろうか?

この長髄彦の話にもなれば東北、青森の方面まで広がりをみせる。さらにはアニメの世界、それも宮崎駿の「もののけ姫」の話の関連性もまことしやかに話されていたりする。なかなか表立って語れない、そして比喩的表現をこうして読み解いていく裏事実がまだまだたくさんあるのだろうと思った。


自分がこの神社に到着してすぐにスーツ姿の40代前半と思える男性が参拝に来た。営業周りの途中だろうか?それともちがうのだろうか?じっくり神社境内を巡られているのが印象てきだった。

次の目的地は「登彌神社」で途中に富雄丸山古墳がある。しばらく前に発掘調査を経て国宝級の蛇行剣が発見された。そうとう力をもった人物の埋葬品だよね?

長髄彦なのか?


正美


 

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