MARCH 2024 ~ 饒速日命と長髄彦めぐり①~日下の草香・・・


いつも古代史探究のような遠出をするときに”これって一体何の役に立つんだろう・・・”って考えが時に頭をよぎったりする。でも何かを学び知り得るということにおいてどんな事にも貪欲にならなくても、一つ二つはそういったものがあれば、しがない一人生の活力になることもあるとは思う。何よりも”考える”という行為が、正しい間違っているかは別にして、限られた時間(とき)に対して能動的に生きているかもと感じれる。

今日のスタートは「神武天皇聖蹟盾津顕彰碑」からと決めた。場所は東大阪市日下町。生駒山系の麓の地区。ここは「日本」という国号の始まりとなった所縁の場所かもしれないという事で立ち寄ることにした。「水走」という阪神高速・東大阪線の終点出口からおりて少し北上すると日下町に入る。どう読んでそう読めるのか「孔舎衛」と書いて「くさか」と読む「孔舎衛小学校」の東側筋二つの所、空き地にその碑はひっそりとあった。



ここは神武天皇が東征(東遷)する時に生駒山系を越えていくポイントとなった場所。そしてさらに山に入ったところ「孔舎衛坂(くさえのさか)」というポイントにもう一つの聖蹟顕彰碑がある。神武天皇の兄にあたる五瀬命が長髄彦の抵抗で傷を負った場所らしい。古代は今の大阪平野が潟(河内潟)で船が出入りできた。そしてここ日下町が当時の草香江という入り江の場所だった。

神武天皇よりさらに昔に天孫・饒速日命もここからタケルガ峰に降臨したとう。この生駒山系から昇る日の出をみて”日が昇るその下”、つまり「日の下(もと)の草香」という言葉を饒速日命が生んだ。そして現在の日本という国号は「日の下」→「日の本」という言葉に変化したものとよく説かれている。とても興味深い考察というか、史実というべきか・・・。想像は膨らむ。


神武天皇の聖蹟碑は全国に計19カ所ある。自分も2,3訪ねた。彼が九州の日向の美々津港を立ち大和に入ってくる所縁の場所にその碑は置かれている。ここの碑と同様に大体はひっそりとあみたいだ。今のネット社会、すでに全部巡った人がサイトで紹介しているので見て巡ることができるけど、行けるところは訪ねたい。

この日下町の辺りまで来ると、生駒の山の稜線もかなり低い。写真では山が高いように見えるけど実際は低い。ちょうど上手く奈良側に入りやすいポイントで今も昔も変わらずなんだろう。現在はちゃんとアスファルトの道路で整備されている。饒速日命であれ、神武天皇であれ彼らが通ったルートと感じて自分も大阪側から奈良側に入った。


道中にふと学校校舎が目に入る。「大阪桐蔭高等学校」の校舎だった。大阪桐蔭と言えば高校野球がすぐに思い浮かぶ。でもこの高校はスポーツ全般、そして文芸も全国でも名を馳せている学校らしい。それにしても辺鄙な場所と言えばそう。

”へぇ~ここにあったんや!”

と、ちょっとお上りさんになって慌てて信号待ちのあいだにカメラを向けた。

車を走らせ生駒山に入ってく。カーブをいくつか曲がりながら、下に町がチラチラと見える。大阪平野の開けた風景だ。あいにく展望台のような場所はなくそのまま車を走らせることにした。次の立ち寄り地は饒速日命が降臨したといわれる「磐船神社」だ。


 正美

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