古市古墳群・軽里大塚古墳(日本武尊白鳥陵)
「日本書紀」を読み始めてしばらく、やっと景行天皇の項を読み終えて日本武尊の御陵とされている羽曳野市の「軽里大塚古墳(日本武尊白鳥陵)」へふと訪ねてみたくなり、朝から近鉄電車に乗り古市へと向かった。天王寺の大阪阿倍野橋駅から急行で古市駅まで20分もかからない。阿部野橋駅を出て次の停車駅がその古市駅だ。あっという間だった。
改札を出てすぐに「百舌鳥・古市古墳群」のウォーキングマップを取り早速歩き出す。適当に”こっちかな?”なんてマップと町の雰囲気を照らし合わせて進む。するとすぐに「日本武尊御陵参道」の表示があった。わかりやすい!そして参道ということになっている「竹内街道」を歩き進んだ。どうやらここは難波~飛鳥までの古の官道だったそうだ。確か長居公園前の南港から始まる幹線道路も古の港から飛鳥への街道だったなと思い出す。
10分も歩かないうちに、左手に「軽里大塚古墳(日本武尊白鳥陵)」が見えてきた。ここは宮内庁に景行天皇の皇子日本武尊(小碓命)の墓と治定されている。日本武尊は東征を無事に終えて帰路、伊吹山の神の祟りに触れ病を患い、能褒野(三重県・亀山市)で亡くなったという事になっている。そこで墓(能褒野王塚古墳)に葬られた。しかし亡骸が白鳥に姿を変え能褒野(のぼの)を飛び立ち、琴弾原(奈良・御所市)に少し立ち寄った。そして古市に飛来し、最終的にここから天に飛び立っていったという・・・。「日本書紀」ではこんな感じで日本武尊の最期を白鳥伝説として伝えている。
宮内庁は能褒野と古市の二つの墓を日本武尊の御陵と治定しているが、どちらが日本武尊の墓なのか?自分はどちらもかなと考えている。「古事記」の内容と違い、「日本書紀」では景行天皇の日本武尊に対する信頼、寵愛を凄く感じる。そして彼の早い死への悲しみ。きっと、一旦墓に葬られたが、景行天皇の勅命で掘り起こして倭(大和)の地へ連れ戻したのではと・・・。親の心情のようなものではないだろうか?とくに寵愛した息子ならなおのこと。琴弾原の地名が出てくるのは道中の中継地だった?そんな考えが浮かぶ。
古の時代は亡くなった場所ですぐに葬られるという慣習があるという事を違う本で読んだ気がする。だから能褒野の墓の存在は間違いではないとは思う。しかし敢えて慣習に逆らい一旦葬られた死体を移動させるような行為は禁忌で、公的にはまずい。だから形を変え、話を変えて正当性を持たせ、白鳥(日本武尊)を登場させたのかなと思えてしまう。これはあくまで想像の域だけども・・・。
さて、「軽里大塚古墳(日本武尊白鳥陵)」の拝所はちょっと”えっ!?”というロケーションにある。拝所の左右が普通に民家だった。これまで見た宮内庁治定の古墳にはなかった雰囲気だった。普通に住人のおばさんがベランダから自分の姿を見ている。これから暖かくなれば、散策に来る人たちも増えてくるだろう。でも何か落ち着かない・・・。
ウォーキングマップには3つくらいの散策コースが紹介されていた。3時間コースもあれば、1.5時間コースもある。今回は興味を引いた日本武尊の御陵、そして応神天皇の御陵の2カ所に加えて、誉田神社を巡るだけにした。それでも結構な距離を歩いたと思う。1万歩超えコース。
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