映画「エゴイスト」の感想・・・
この映画、本当にしんどい映画だった。自分の感覚で冒頭シーンから「拒否」の反応をしめしていた。
確か冒頭は鈴木亮平演じる浩輔がブランド(Vuitton)のアイテムを携え自身の田舎に帰るシーンだったか?”ないわ~”というような滑稽なコーデ。鈴木亮平のがっちり容姿体系とのミスマッチで初っ端から項垂れた。原作では”ブランド”というのは特定銘柄ではなかったと思う。映画のタイトルにもある「エゴイスト」のエゴを満たすために服装は彼の”鎧”なんだが、原作ではお洒落感を出している垢ぬけた雰囲気が昔にからかわれた”ブタ”(同級生)に優越感を感じるという設定に近い気がする。 原作者の高山真が実際にそんな雰囲気の装いだったかはわからない。ただ映画の浩輔の様相そのまんまだったら、それを身に纏っている人に対して引けを感じたり羨んだりするよりも、むしろ”えっ、何あれ!?“と興覚感を持つかもしれない。それが「エゴ」が度を過ぎればそうなるという表現、そのシーンの含みだったらわからなくもない。
その作品の主人公となる人物(原作者の高山真の自伝的作品)役、浩輔を鈴木亮平が演じ、その恋人龍二役を宮沢氷魚、そして龍二の母親役を阿川佐和子が演じる。このLGBTQの世界観を多少は知る身としては主要の3名の配役はどうもミスキャストだ。実際の原作からすれば鈴木亮平と宮沢氷魚の配役を入れ替えればまだ多少は成立したかもしれないし、自然に感じていたかもしれない。男性同性愛者の世界、ジャンルは多様だ。その中で今回の作品は「おねえ」世界の一つの物語だろう。その物語の主要登場人物の1人を鈴木亮平が演じようとしていた。”確かにそういう仕草、行動もあるよね”なんて思う。実際にその世界に触れ彼なりに学んだのだろう。でも鈴木亮平は男性性が強く芯から滲み出てるし、それがどうしても作品の中でそれがぬぐえない。もしかするとそれが「拒否」反応の要因の一つだったのかもしれない。
宮沢氷魚演じる龍二。これも”ん!?”って思えるキャスティングだったと思う。作品内ではトレーナーの卵として浩輔と知り合うのだが、どこからどうみてもトレーナー容姿じゃない。宮沢氷魚に肉体派感が全くない。むしろ鈴木亮平がそれだった。原作を読み終えた時、途中から二人の配役は逆じゃないかと感じたが、実際の映像でそれをまた強く感じた。何か宮沢氷魚に龍二という人物が投影されている気がしない。鈴木亮平もそうだけども。そう言えば、宮沢氷魚は以前にもLGBTQ系の作品に出ていたな。あれもイマイチの作品だった。
作品の登場人物と演者のミスマッチ感があったのは母親役の阿川佐和子もそうだ。原作を読み進めながら、病弱の幸薄な母親のイメージは昭和の女優・赤座美代子が即浮かんできた。しかし、実際の母親役の阿川佐和子が登場すると、”元気そうじゃん!顔色良いし!”っていう雰囲気が出ている。語気も元気そのもの。素人演技というのか!?素人演技と言えば、これだけ引っ張りだこの鈴木亮平ですら自分はそう感じてしまった。もちろん宮沢氷魚もだ。なんでこの面子をキャスティングしたんだろうと思う。そう言えば、母親がやっと入院して初めて顔色悪くなり病弱感が増していた。唯一の救いは柄本明の父親かなと思う。ホントに自然、普通の演技だったから。
上演中なんどもスクリーンから目を背けてしまう事があった。それはカメラワークでとにかく流行りなのか、手前の人物にフォーカスを当てたと思ったら、横の人物にフォーカス。かと思ったらまた手前の人物と。酔いそうになる。これ以外のカメラワークにも雑さが目立って目が回るとは大げさか!?
最近はLGBTQの啓蒙的な感じがメディアやあちこちで取りざたされているけど、これもその一環で程よく良い原作の映画版に人気どころの俳優を起用し上手くその伏線に繋ごうとしたのかなって思えなくもない。自分には(映画は)駄作だった。キャスティング、映画の脚本と演出も。最後のシーンも”どう終わるのか?“と思っていたら”ぶちっ!“的なぶつ切り強制終了。何かこれも「流行り」何だろうか?ちょっと考え過ぎか?
しばらく前に、草彅剛主演の「ミッドナイトスワン」は日本のLGBTQ系の映画でも秀作の一つだと思う。それは現実感(メディア等で表で扱われる世界と逆の世界)が凄く描かれていたし、主役の草彅剛の演技もその役柄に上手く投影されていたから。要は“ハマる”演技だった。ただ今回の「エゴイスト」は・・・が多過ぎた。ベッドシーンもねぇ・・・(-_-;) ベットシーンは「窮鼠はチーズの夢を見る」の方が断然良いね。キャスティングも内容も。
興味のある方は、是非原作を読んでから観ることをお勧めします。むしろ、原作だけ読んでそれだけで終わらせた方が良いと思う。実際、他に観た人はどういう感想を持っているのだろう。
自分はある意味”酷評”だけどね(笑)
正美
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