願わくは”終わり良ければ”・・・
一昨日、京都に出掛けた。お盆に西本願寺の大谷本廟へ行って以来の京都。添乗員時代の先輩の旦那様から一時間ほどクライアントさんを「伏見稲荷大社」へ連れて行って欲しいと急なお願いがあった。その日は夕方から仕事でお断りをしようと思ったけども、ギリギリ間に合いそうなのでお引き受けした。こういうことするのは添乗員を辞めてから初めてだ。
アルバイトでもやってみようと思う事はあるけど、旅行業界と「添乗員xお客様」の関係性にまだ前向きになれない自分がいるので行動にいたってなかった。ただ今回はインバウンドの海外のお客様だし、尚且つ個人旅行のクライアント様。マンツーマンならまだ気楽と思いやってみた。
こういう仕事は自分の性に合っているんだろうけども、仕事ってその時その時の人生の向かう先に必要な選択して変わっていくもの。添乗員以後の石垣島での仕事も、今の仕事も、変わり目を振り返ってみると”あぁ、なるほどな”って思う節はある。一つの場所に留まり続けるのもそれはそれで「必要」な選択であるが、自分は何か違うのだったんだろうね。転々とする。自分の人生「自分様」だけの事だけ考えていればいい。でも深層心理には「他人様」を常に意識してしまう自分がいるのかもしれないね。
無事にクライアント様との短い時間を終えて解散。後に急用を終えた先輩の旦那様と合流してその後夕刻までの観光を楽しまれたそうで安心をした。
今日は連休。
来週からの両親の引越し準備の段取りをどう進めるか考えを巡らす。運転免許の更新もあるし、佐賀の草抜きの手配、また急にこのタイミングでこうした方が良いんじゃないかと思えることがあり、両親と相談し問合せしたり、動いてみたり。自分がこういう風にバタバタと東奔西走するのも、両親が余生を心身煩わすことのない彼らだけの環境を作るため。結果として、自分の為でもある。
気を張り過ぎているところもある。ストレス溜まってるなと感じるところがあるし。だから妙にカラ元気の雰囲気が出ているのかともう一人の自分が眺めている気がすることもある。こういった諸事が本当に片が付いたと思えて、自分の事を考えれるようになったらまた次の「変わり目」が来るだろうか。
その時が来たら、機を逃さず、動く必要があれば迷わず動ける柔軟な自分でありたいと願う。どこでどう今生を終えようとも、その考えの先には自身の「幸福の探求」の良い結果があると信じたいね。
天気の良い1日になりそう。外の空気を吸ってスッキリするか!
正美
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