私の役割だったということ・・・

 

真夏の佐賀の米畑


佐賀から戻った翌日に解体業者から連絡があった。隣人から”音を立てずに作業をしろ”的なことを言われて困っていると・・・。まぁ、解体するのに音を立てないのはまず無理だ。叔母には事前に挨拶を済ませてもらい、作業をする連絡もちゃんとしている。叔母曰く、昔から変わった隣人だとも言っていた。業者曰く、元々市への草木のクレームはその隣人ではないかと。


結局のところ、市の改善要請で動いたことで、業者も行政の許可を得て解体作業に入っているので”何言ってるの?と言ったところ。業者にはまた何かあれば、市にクレームを申し出るように伝えてくださいとお願いしておいた。昨日、業者に連絡をすると、以後は問題なく作業できているという。


自分にとって、今回こうして小城市からの連絡があり、草木の伐採、そして解体までの流れは本当にありがたいことだと思っている。それは、実際に家に入り、家財道具諸々、衣類やゴミなどなどをほぼ一人で片づけることの大変さを実感した。もし家が今以上に倒壊部分が広がり中に入ることも叶わない状況になっていたなら、処理の労力は倍以上になっていたはずだ。それを諦め業者に処理も丸投げすれば、それなりの請求がきていただろう。


だから大変だったけど、先々の事を考えるとこれで良かったんだと強く思う。


姉が生きていた頃に、この家のことを何とかしなくてはという話になり、姉自身も今回自分が動いたように、動かなくてはと姉が考えた事があったと両親が言っていた。しかし、そのままになった。当然だろう。そんな身動き取れるような余裕は姉にはないはずだ。結局のところ、私の役割なだけだったということだ。


年内にこの一件が片付いた後、次はあれかぁ。そしてその次はこれを・・・と頭にある。実際、手元でほったらかしにもしている。理想が遠のいているのか、近づいているのか全く靄に掛かって見えない。そんなところだろう。ただ信じたいな・・・


夜明け前がもっとも暗いことを・・・


正美

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