50th Birthday...
#50歳からの暮らし
日本では20歳の「成人式」、60歳の「還暦」という節目が人生の大きな分岐点のような慣習があるけれども、自分には「50歳」という年齢の節目が何かハッキリとした境界線をまたぐような気がしてならない。ふと考え感じてみると、”40何がし”から”50何がし”の音の変化にはそれほどピンとこないが、数字そのものを目で認識する変化には”うっ!”と些か眉間辺りに皺が寄りそうな感覚は無くはない。よく”数字は嘘つかない”なんていうやつだろうか!?
49歳を迎えてから今日まで”のらりくらり”の一年だった。刻々と過ぎていく時間を”やり過ごした”感は拒めない。ふと振り返ってみれば、(言い訳気味に)それを敢えて良しとした40代だったかもしれない。30代はその当時の自分であったり、それまでの過去の自分であったり、自分の人生に関わる全ての人であれ物事であれ、とにかく漠然と抗えて気構える気持ちが強かった。プロレスのゴングが鳴って、レスラーが両手を合わせ歯を食いしばって力比べをするみたいに力みまくっていた。そんな感じ・・・。
10年前@シドニー(No regrets for my 30s) |
それがふとした時にそんな自分を止めて、止めさせられて、リセットして、リセットさせられて何とでも表現できるけど、概して抗うことを止めた。そうしないと結構心身きついところまできていたと本能が感じたからかもしれない。ただその時の自分のベースにあったのは「経験」と「挑戦」だったので、、”もういいかな!”、”潮時!”、悪く言えば”もう我慢をしない!”とでも言っておこうか。と自分はサッと線を引けたんだと思う。以後、40代はその反動で特に石垣島から戻ってからは緩~く生きた。元々が適当な感じだし・・・。
人は自分の人生の有限性に気づき、
そこで初めて自分が生きていいること、
自分が存在していることの重みを自覚し、
自分の在り方に真剣に考えるようになる。
(浜田)麻里さんがファンクラブの会報で引用していたマルティン・ハイデガー「存在と時間」からの言葉。ここ数年は人生、そして命の有限性を感じる社会的、そして身近な出来事が多かったと思う。それらが重なったからというわけでは自分の場合はないけれども、この歳になりそれをもう少し強く考え意識するようになってきている。ハッキリとした自分の「死生観」を持つことでこの先の不確かな未来に振り回されないように、たとえ振り回されてしまったとしても上手くあるべき状態に戻せるように。そしてそれを知恵のような、力のようなものに換えてこれからの50代を生き抜きたいと感じている。
そして限られている命、一生、そしてその人生に何か爪痕、生きた証をそれが形として残るものであれ、誰かの記憶に残るものであれ残したいとはおぼろげには思う。のらりくらりとしている自分とせっつく承認欲求のような願望との間のジレンマだね。50代に突入して2∼3年は過渡期のはずなので53歳以降に変化が目に見える形で出てくるだろう。皮肉を込めてドラマだった姉が全うできなかった50代を全うしてやりましょう。自分は図太くしぶといからいけるだろう・・・。
様々なタイミングでお祝いの言葉を送ってくださった皆さん。
ありがとうございました 。
おっさんはもう少しだけ悪あがきしてみます。
ウザかったらごめんなさい。
先に謝っておきます。
正美
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